今日も、セミナー後の会話の中で出たテーマを取り上げてみたいと思います。「自分はなぜ存在しているのだろう?」と言った事です。
私もそう言う事をよく考えていましたし、そう言う事を考えずにはいられないと言う人達っていると思います。
何事にも目的があって手段がある訳ですが、人生と言う手段・機会を得ながら、そうして得ている人生の目的が分からないじれったさを私自身も感じて来ました。今でも多少あるのかも知れませんが。
子供の頃には、戦争体験などの本を読みながら「みんなが、親より一歩スピリチュアル的に進歩すれば、社会は急速に平和になって行く」と思い、取り合えずそれが自分の最低限の義務だと思っていました。
しかし、それで何って話なんですよね。それが自分の存在する目的?それで何?どうなるの。
しかも、それさえも出来ずに、戦争と争いの歴史が繰り返されている現実がある訳で、こんな世界に何か意味があるのか?って。
これって「肉体的な個の視点」から考えると、生きている間にこそ目的の全てがあると言う事になります。お金や他人からの評価、欲望を満たすと言った形で捉えられ、それがこれまでの社会(人々)が持つ古い信念でした。
それはそれで問題は消化されており、自分の存在する目的への疑問はあまり生じないのかも知れません。
しかし、それでは納得できない人達がいるんですね。「肉体的な個の視点」を超えた宇宙の真理としての側面から、自分と言う存在の意味を求め、スピリチュアル的な探求を進める人達です。
私達を含む全ての存在は、その源へと遡って行くと、「大いなる全て」と言われる存在へと辿りつきます。それは、意識的に目覚めた唯一の存在(全)です。
そして、大いなる全てが意識に目覚める前の、ただエネルギー(無限の可能性)であった状態を「一なるもの」と言います。
大いなる全ては、自分が一なるものであったと言う事を知っているのですが、その一なるものが「なぜ存在しているのかを知らない」んですね。
こう考えてみて下さい。
宇宙空間に一羽の鳥がいたとします。
その鳥は、自分が卵から生まれた事は知っているのですが、その卵がどの様にして生まれたのかを知る術はないと言う事です。
それを知るには、卵が生み出される過程を観察した他者に教えてもらう必要があります。
しかし、今のところ大いなる全てにとって、その問題は解決されていません。なぜなら、大いなる全ては存在の全てであって、その外側に他者が観測されてはいないからです。
まず、こうした現実を受け入れる必要があります。答えは「わかっていない」と言う事です。そして、それを受け入れた所から、私達がなぜ存在し生きているのかと言う事を改めて考え始める必要があるのです。
大いなる全ては、エネルギー(無限の可能性)としての自分自身が何者なのか(どの様な可能性を持っているのか)知りたいと思いました。「自己探求への欲求」ですね。
そして、自らの内にあらゆる可能性を「現実化」させ始めたという事です。可能性は、ただ存在するだけではそれを経験する事は出来ません。現実化されてはじめて経験し、より深く理解する事が出来るのです。
そうした現実化の中には、エネルギー的で調和的な経験もあれば、物質的で分離的な経験もあり、私たちはたまたま「今回の人生では」物質的・分離的な経験をしていると言う事です。
私達と言うのは、大いなる全て自身が持つ1つの視点が現実化されたものであって、大いなる全てそのものの一部です。
だからこそ、私達の中にも、こうして自己探求への欲求が投影され無限の可能性と繋がってもいるのです。
また、「肉体的な個としての視点」からは、こうした物質的・分離的でネガティブな経験は必要ないかのように思えるかも知れませんが、存在全体(大いなる全て)としての視点から見れば、ネガティブな経験があるからこそ、ポジティブな経験もあるのだと言う事です。
(その時、肉体としての一時的な経験には終わりがあっても、魂としての経験には終わりが無く、私たちは本質的に魂としての存在であると言う事を理解しておく必要があります。)
仮に「ポジティブな経験しかない」のであれば、それは「普通」の事であって、ポジティブな経験だとは言えません。
不味いと言う経験を経たからこそ、美味しいという経験をする事が出来るのです。つまり、経験とは、そもそもが相対的なものであると言う事です。
「大いなる全て」のおかれた現実と言うのは、なぜ、自分が存在しているのかは分からない。しかし、自分には無限の可能性がある事を知っている。そして、ただ、ボ~ッと存在しているのではなく、自分を探求してみたいと言う強い欲求がある事も自覚している。
なら、自分の持つ可能性をとことん探求してみようじゃないかと言う事なんですね。そして、全ては自分の内での出来事になる訳ですから、当然、分離的な経験よりは調和的な経験を心地良く感じる性質も持っています。
そして、調和的な心地良さを経験してみるためには、分離的な心地悪さも経験しておく必要があるのだと言う事でした。
それが、大いなる全ての内で繰り広げられている創造の本質なのかも知れません。
私たちは、そうした大いなる全て自身の内に創造された1つの視点です。
つまり、私たち存在の全ては、大いなる全てそのものでもあり、それ故に大いなる全ての性質である「自己探求」や「調和的欲求」が、私達を通じてこの世界の中でも、こうして現実化され続けているのです。
無限の可能性(大いなる全て)には、49.5%のネガティブな性質と、49.5%のポジティブな性質が存在しています。
つまり、経験とは常に相対的であるために、ポジティブな経験(例えば美味しい)と言う経験が創造されれば、必ずそれと対になるネガティブな経験(不味い)が創造される事になるのです。
そして、残りの1%は中立で均衡した状態、つまり解釈によってどちらにでも経験できる領域があるのだと言う事です。その領域においては、そもそも存在が持つ性質である、調和への欲求が表れる事になります。
つまり、その1%はポジティブな領域に加える事が出来るのです。だから、存在の総体としての大いなる全ては、常にポジティブな方向へと深化・拡大を続けている事になります。
究極的な意味において、「私たちはなぜ存在しているのか?」と考える時、その答えは明確で「わからない」と言う事です。
それは、この人生で答えを求め続けたからと言って分かるものではありません。
そのため、そうした現実を受け入れたところから、「それでもなぜ、私たちは生き続けているのか?」と言う事を深く考えて行くことが、スピリチュアル的な目覚めを促進させる事に繋がって行くのだと思います。
言ってみれば、私たちは放浪の旅人の様なものです。目的地が明確に決まっている訳ではないのですが、道のりそのものが目的でもあるのだと言う事です。
様々な人や自然との出会いに興奮し感動する。そうした経験そのものが、自分と言う存在が持つ1つの側面だと言えるのです。
つまり、大切なのはいつか未来に訪れるかも分からない、目的地にあるばかりあるのではなく、「今・ここ」で目の前に繰り広げられて行く旅の過程にこそあるのかも知れませんね。
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