2019/05/28

知識と世界観の違い

今日は色々と用事が重なったために、少し短めになるかも知れませんが、セミナー後の会話の中で頂いたテーマについて、また1つ取り上げてみたいと思います。

「チャネラーと言う訳でもないのに、よく色々と知っていますね。」と言う様なことを言って頂きました。

それについては、1つ明確にポイントとなる要素があるのだと言う事を強く感じていますので、今日はそれについて書いてみたいと思います。


その時に少し話させて頂いたのですが、私はもともと、チャネリングと言う経験をしてみたいなぁと言う興味はあるものの、チャネラーになりたいとは思って来ませんでした。

チャネラーになってしまったら、その高次元存在に依存してしまい、自分の主体性を失ってしまうような気がしていたからです。

そのため、チャネラーではなくてマスターに向かって前進して行きたいと思って来ました。つまり、高次元存在のメッセージを伝える伝言役ではなくて、自分自身がスピリチュアルな目覚めによって高次元存在に近づいて行きたいと思っていたのです。

そうした過程における道のりと言うのは人それぞれだとは思うのですが、大雑把な雛形と言える様な過程があるのだと思います。

それについてパズルでも良いのですが、今日は福笑いに例えて考えて見ることにします。

まず、私達の現実からマスターへと向かう過程として、他人からの教えによって知識を吸収して行くと言う段階があります。

福笑いで言えば、目や鼻や口などのパーツを自分の手元に集めて行く過程ですね。

だいたい、今の私達と言うのは、そうしてかなりのパーツが手元に集まっている状態だと思います。

そのため、目と言うのはこう言う感じだ、耳と言うのはこんな感じだと言われれば、スムーズにそれが理解できるし、それについては知っていると感じる事も多いのではないかと思います。

つまり、そんな感じでスピリチュアル的な知識と言うパーツを、かなり自分の中に蓄積していると言う事です。

しかし、そうしてパーツ(知識)をたくさん自分の中に持っている人は増えて来ているのですが、それを自分の中で配置良く並べて顔(世界観)としての全体像を捉えている人は、まだあまり多くはない様に感じられるのです。

その違いの大きさが分かりますでしょうか。

双方ともそれなりのパーツを持っているのですが、一方はそれはあくまでもパーツとしてごちゃ混ぜに頭の中に押し込まれている状態で、一方はそれが世界観と言う個々の繋がりによって浮かび上がる全体像を持っているのです。

それは、バラバラの知識を増やす事のみによるものではなく、既にある知識の組み合わせを試行錯誤する事によって浮かび上がって来る事になります。

顔としての全体像を捉えたのであれば、次はより大きな全体像を捉えて行く為に、上半身や全身のパーツにあたる新しい知識を求め続けて行く事になります。

しかし、パーツ集めだけが大切なのではなく、それを自分の中で世界観として組み合わせて行く必要もあるのだと言う事なのです。

これはこう。あれはそう。と言うのではなく、これはこうだからそうなって、その結果、あれがああなってこっちに繋がってくると言うように、バラバラの知識ではなく、知識全体が繋がり合っている状態に向かうのです。

すると、多少パーツの無いところがあっても、前後左右の関係から多分それについてはこうだろうと言う事が分かってくるようになります。

こうした部分と言うのは、本を読んだりと言うように自分の外から知識を吸収する取り組みのみでは、なかなか育ちにくいと言えるでしょう。

「自分自身で考える」事が、とても大切になってくるんですね。自分の中で試行錯誤を繰り返す事によって、自分の持っているパーツが繋がり合い、ああ、なる程、こう言うことだからこの時にはどうするといいんだなと言う具合に世界観として知識が活かされて来るのです。

それは、よしそれに取り組んでみようと思って、パッパと組みあがって行くものではありません。

しかし、スピリチュアル的な取り組みにおける1つの方向性として、自分の外側に答えを探すばかりではなく、「自分自身で考えてみる」事の重要性を知って置くと、長い目で見た時にその取り組みが大きな結果をもたらしてくれる事になるだろうと思います。


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