2019/07/24

ポジティブとネガティブ

「ポジティブなエネルギー」と「ネガティブなエネルギー」の違いについてご質問を頂きましたので、今日はその辺の事に付いて書いてみたいと思います。

まず、ポジティブ・ネガティブともに、元となっているエネルギーは同じエネルギーであると言うことが出来ます。言い方は色々とあるかと思うのですが、例えば「愛」「エネルギー」「宇宙」「神」等と言われるものですね。


私達の内側と言うか、私達そのものがそうしたエネルギーによって、無限の世界の一部である魂として永遠に存在し続けています。

そして、私達と言う存在は、常に自らの内にゼロポイントを抱いているんですね。つまり、ポジティブでもなくネガティブでもない、プラスマイナス0としてのポイントです。

ここまでいいでしょうか?

全ての人や存在たちは、例外なく無条件の愛に基づくエネルギーによって存在している。そして自らの内に、ゼロポイントを抱えています。それは、創造が始まる場所です。

物質的に考えないで下さいね。自分自身の内に広がるエネルギー的な性質として捉えてください。

私たちはそこから、内面的なスピリチュアル世界と外面的な物質世界のバランスを取りながら自らの経験を創造しているのです。

この時、意識がより内面的な領域へと傾けば、ポジティブな経験が創造されて行く傾向が高まります。なぜなら、私達の内面に広がるスピリチュアル世界とは、エネルギー的で一体的(つまりポジティブ)な世界であるからです。

そのため、ポジティブな経験と言うのは、愛情・友情・感動・共感など、心の中の一体感として経験されます。それが心地良い経験となるのは、それが、私たちと言う存在の本質であるからです。

しかし一方で、意識がより外面的な領域へと傾けば、そこにはネガティブな経験が創造されて行く事になります。

なぜなら、外側に映し出されている物質世界と言うのは、分離的な世界であるからです。なぜ、椅子は椅子、机は机として存在しているのかと言えば、それらは分離的に独立して存在しているからですよね。それが、物質世界の特徴なのです。

もう少し補足すれば、エネルギー世界においては「区別」はあっても、「分離」はあり得ません。私たちは自分と言う魂として、世界と区別する事は出来ますが、それは世界から分離していると言う意味ではないんですね。

自分と言う全体と、1本の手の指とは区別は出来ますが分離してはいないですよね。そうしたあり方が、世界の真実であり真理なのです。

しかし私達の魂は、それでも分離と言う経験がどの様なものであるのかと言うことに物凄く興味を持って、内面世界の外側に物質的な幻想世界を映し出す事で、その幻想の中に意識を没入させているのです。それが、今の私達の状態です。

私達がそうした中から向かおうとしている創造の方向性と言うのは、実体としての内面・スピリチュアル世界に「主体」を置きながら、幻想としての物質世界における経験創造を楽しむと言う事です。

逆に言えば、そうした経験創造を楽しむためには、現実としてのスピリチュアル世界に主体を置かなければならないと言う事になります。

つまり、「愛・エネルギー・神・宇宙」の一部としての「自分に主体」を置いて経験を創造しなければ、そうした調和的で楽しい経験を創造することは出来ないのだと言う事です。

しかし、これまでの私たちは、自らの外側に映し出された物質的な幻想の中に主体を置く事によって経験を創造してきましたよね。

例えば、お金ですね。あるいは、物質的・分離的な経験に基づく比較競争だとか。

そうした分離的なあり方に「主体」をおいた経験と言うのは有限であり、限りがあるから争いが生まれて、競争的な人生が創造されて行く事になるんですね。

私たちは、愛に基づくエネルギーによって存在しています。そして、自らの内にバランス点・ゼロポイントを内包しています。

2択でどちらかを取ってどちらかを手放すと言う話ではなく、両方のバランスを取りながら、どちらにより比重を傾けて経験を創造して行くかと言う事なのです。

自分と言う存在の真実に基づいてスピリチュアル世界に主体を置けば、そこからポジティブ(一体的・調和的・エネルギー的)な経験が広がり始める事になります。

物質世界と言う幻想に基づいてその中に主体を置いてしまえば、自然にネガティブ(分離的・競争的・物質的)な経験が生み出されて行く事になります。

つまり、ネガティブなエネルギーとポジティブなエネルギーと言うのは、異なるエネルギーではなく同じエネルギーなのですが、経験を創造する上で流れる方向(意識の向かう方向)が違うと言う事なんですね。

そして、ネガティブな(経験を創造している)人は人を傷つける事が容易であり、ポジティブな人は傷つきやすい・・・と言うような事もコメントの中に頂いたのですが、それについても少し触れてみます。

ネガティブな人と言うのは、意識がより物質的・分離的な幻想の中に傾いている人です。そこは限界のある経験世界です。寿命・お金・時間・場所・食料・商品・・・。全てのものに限界があるために、まず自分が生きて行くためにはそれら必要なものを確保しなければなりません。

確保するとは、競争によって奪い合うと言う事ですね。ポジティブな人達であれば、スピリチュアル的に分け合うと言う経験を生み出せるのですが、意識が物質世界に偏っている人達にはそうした事が出来ないのです。

表面的に出来たとしても、虚栄心などに基づく力によるもので調和的ではないんですね。

そうした世界観と言うのは、自分と他人を肉体に基づいて完全に分離して捉えているために、他人と競争する事で限られた資源を奪い合い、自分を有利に生き残らせて行く必要があると信じているのです。

つまり価値観として、自分と他人の比較競争によって、自分を有利に立たせることが何よりも重要になるのです。

そのために、人を傷つけて自分の方が優位である様な気分に浸ることは、そう言う人たちにとってはある意味では快感なんですね。安心できるのです。俺はあいつに負けていない、つまり自分の方が生き残れる確率が高いのだと。

だから、人を傷つける事も容易に出来てしまうと言う事なのです。しかし、それはネガティブ(不安)な方向に流れるエネルギーが生み出している現実なのです。

また、ポジティブな人が傷つきやすいと言うのは、物質的な競争にも傾けれず、スピリチュアル的にもなりきれずにゼロポイント付近で立ち往生している場合だと思います。

分離から調和への移行過程において、迷いの中での模索中だと思うんですね。そうした人には、消極的な傾向があり、そこからポジティブな方向へと抜け出すに従って、積極的で強く傷つきにくくなって行きます。

あと、追加質問いただいた部分で、人はどの様な要因によって意識が外側に傾いてしまうのかと言う事ですが、コメントに書いたように「これまでの転生を通じての魂の成長具合」によるものと、「今回の人生の中でまとっている個性」によるものが大きいのではないかと思います。

それは、今回の人生で改善していける要素があるからこそ、今の人生の中に持ち込まれた問題なのです。

だいたい、今回の記事についてはこんなところです。これまでにも度々書いていることですが、こうしてテーマを振って頂けると記事が書きやすくてありがたいです。

かと言って回答の記事を書く前に次々頂くと、のんびり書けば良いと思いながらも、性格的に焦って勝手に疲れてしまう所があるので、まあ、気になっていることのある人は、あまりたくさん重ならないようにリクエスト頂けると嬉しいです。

皆が書き出すと書きやすくなって、皆が書かないと書きにくくなるのが人の心理だとは思いますが、人とは反対の行動をとった方がゆとりを持った経験が出来ると言う事は日常的にも多々あるのではないかなぁと思います。

私は、自分が人込みから離れた方向に動く傾向が強いので、経験的にもそう感じる事が良くあるんですね。(^ー^)


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2 件のコメント:

  1. すごく分かりやすく仕組みが理解が出来ました。
    ありがとうございます。

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    1. どういたしまして、良かったです。(^ー^)

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