ご質問を頂きましたので、今日はそれについて書いてみたいと思います。以前から書いている事ですが、ご質問については大歓迎です。
ただ、そこに書くのは私の視点からの見解であって、唯一絶対的な答えではありません。そもそも、唯一絶対的な答えと言うものはなく、常によりポジティブな、あるいはよりネガティブな見解が存在しえるのです。それが無限と言う、世界の性質でもあります。
皆さんの、よりポジティブな人生の探究における1つの参考としてのご質問については、どなたでも大歓迎です。ただ、タイミング的にあまり他の方と重ならないようにしていただけるとありがたいです。
さて、そんな訳で今回いただいたテーマですが、「感情的に繊細な人よりも、無神経なくらいの人の方が社会的に生きやすい事が多々あるのですが、魂的な視点からは、その辺についてどの様な解釈になるのでしょうか?」と言ったような感じになるのかと思います。
まず、書いて頂いたとおりに、魂の視点から入って行く事にしたいと思います。
そもそも、私たちが経験して来た世界と言うのは、「3次元の物質的・分離的な経験をするのに適した世界」であるのだと言う事です。
そこでの学びによって、そうしたあり方では、効率的により深く大きな幸せを生み出していく事は出来ないのだと気づくために、私たちは魂としてこの経験世界に訪れているのです。
つまり、これまでは経験世界そのものがネガティブな環境であったために、それに上手く適応するには、自分もネガティブであった方が噛み合せが良かったと言う事になるんですね。
そして、私たちの魂はこれまでの数えきれない転生の中で、既にそうしたネガティブな経験を無数に繰り返して来たのです。そして、その結果がどうであったのかと言う事を、魂として良く知っているのです。
例えば、心の繊細な人は、なぜ他人が傷つく事など気にせずに、無神経で図太くある事が出来ないのでしょうか?
それは、それによって相手が傷つき、その結果、巡り巡って自分にも跳ね返ってくると言う事を、魂のレベルから深く知っているからなんですね。意識的であれ無意識的であれ、そうした魂の記憶が、不安と言う形で顕在化されているんですね。
(それは、個性など様々な要因が絡み合っての表れなので、一概にそうであると言うのではなく、大雑把な傾向としてそうした面があると言う事です。)
つまり、そうした人たちについては、既に3次元的な学びがかなり進んでおり、4次元的な経験環境の方が魂にとって適したものになりつつあると言う事になります。
ただ、そこには今の時代において最終試験に相当する経験機会があり、そこで自らの明確な意思(行動)によって、4次元環境へ進むのに適した状態にあると言う事を、自らの波動(あり方)によって明確に示す必要があるのです。
ここでは「繊細な人」と「無神経な人」と言う形で表していますが、それは3次元的な“不安”に対して、それぞれに「立ち尽くす人」と「エゴによって反応する人」であると言えます。
しかし、より強く高次元へと向かう流れに乗っている人たちと言うのは、そもそも「不安を感じない人達」であるとも言えます。
例えば、キリストやブッダが不安を感じていたと思いますか?彼らは、他人の不安な気持ちを理解する事は出来ていたのですが、だからと言って、自分が同じように不安を経験してはいなかったと思うんですね。目覚めてからは。
キリストは磔で処刑された訳ですが、痛いし辛いとは思ったでしょうが、不安を感じてはいなかったと思うんですね。彼は始めからその経験の意味を知り、自らそれを受け入れていたからです。
より高次的な視点からその経験の意味を知らず、そこから逃げたいと思う時に、人々は不安に囚われる事になるのです。
そして、「繊細な人」はそこに立ち尽くしてしまい、「無神経な人」は他人を傷つける事を恐れずエゴによって行動していると言う事です。
つまり、無神経な人は、まだ3次元的な学びの真っ只中にあるのだと言う事です。そのために、表面的にはその世界に適応している(上手く生きている)様に見えやすいんですね。
しかし、繊細な人は魂のレベルにおいてはそうした学びを終えつつあり、そうしたあり方では、求める様なより高次的な幸せには繋がって行かないと知っているのです。(少なくとも魂のレベルにおいては)
ただ、それではどうしたら良いのかと言う部分において、まだ、明確な答えを見いだせていない、あるいは思考(知識)的にはそれを捉えつつあっても、それが経験を通じて信念(常識・世界観)として、自分のあり方の中にまで十分に浸透していないのだと言う事です。
したがって、知識や経験の積み重ねによって明確に3次元競争的なあり方と決別し、4次元調和的なあり方へと力強く向かい始めれば、「繊細な人」は「強い人」へとバージョンアップする事が出来るのです。
そうしたバージョンアップと言うのは、なかなか本を読んで知識を得るだけでは進んで行かないんですね。それも重要なステップではあるけれど、それだけでは完成しないと言う事です。
私たちがこの世界に来た意味と言うのは、経験を通じてそれを自分のあり方の中に浸透させる事にあるんですね。
知識だけであれば、魂は既にそれを知っているのです。つまり、知識として表面的には知っているけれど、経験を通じてより深く自分のあり方の中にまでは浸透させられていないと言う事です。そこに、魂として持っている課題があるのです。
そして、魂の世界では、なかなか知識を自分のあり方の中に浸透させることは出来ないんですね。それを一気に劇的に進める事が出来るのが、この物質的な経験世界なのです。
これまでも常にそうであったのですが、ここから先はより、肉体的な経験にある内に思い出すことの出来た魂の記憶(スピリチュアル的なあり方)について、経験を通じてどれだけ自分のあり方の中に浸透させて行く事が出来るかと言う点が重要になります。
こうした機会と言うのは、魂としての本当に貴重な経験の機会なんですね。単なる1回の転生ではなくて、節目となる特別な転生(人生)なのです。
だからこそ、与えられた環境の中でこうして繋がりあった仲間たちで上手く作用しあって、お互いを高めて行くことが出来たら良いなぁと思うんですね。
あくまでもメインの取り組みは自らの内面的な領域での事となるのですが、それを加速させるためには、こうした外面的な物質世界での日常環境を活かす必要があるのです。
それは単にセミナーや読書によってと言う意味ばかりではなく、家庭や職場での人間関係などを通じてと言う意味でもあります。そうした当たり前の日常の中でこそ、スピリチュアルな知識を、自分のあり方の中へと落とし込んで行く事が出来るのです。
ありがとうございます。
返信削除何回も読み返しました。
大変参考になりました。
どういたしまして。また、何かあれば、気楽にコメントしてみてください。(^-^)
削除とても府に落ちました。教えてください。職場にアスペルガー症候群と思われる人がいて、無神経で周囲の人を次々と傷つけていく人がいました。このようないわゆる脳の発達障害といわれる人も学びの真っ最中でしょうか。あまりエゴは感じなかったのですが、いかがでしょうか。
返信削除こんにちは、コメントありがとうございます。
削除そうですね(^-^)。今日はお昼に別の記事を出しますので、少し短めになるかも知れませんが、2~3日の内にその辺のテーマで何か書いてみようと思います。よろしくお願いします。