2019/09/08

アスペルガー症候群

リクエストを頂きましたので、それについて取り上げてみようと思います。まず、頂いた内容について、おおよそそのままで転載してみますね。

「職場にアスペルガー症候群と思われる人がいて、周囲の人を次々と傷つけていく人がいました。このような人も学びの真っ最中なのでしょうか。あまりエゴは感じないのですが、いかがでしょうか。」

先ず最初に、人にはそれぞれ多面的な要素があり、アスペルガー症候群やADHD等であるからと言って、一概にどうであると決め付ける事は出来ません。そのためそれについて書く時には、1つの傾向としてのものであると言う点を留意して読んで頂きたいと思います。


私も、おそらくそうであろうと思われる方たちと、深く関わって来た事があるのですが、基本的に私が関わって来た人達は人間的にはとても良い人達でした。

ただ、「生き方が半端でなく不器用」(3次元の現実に適応できていない)ために、本人やそれと深く関わる人ほど、かなり大きな負担を背負う事になっていました。

一般的にそう捉えられやすいように、私はそれを「発達障害」とはまったく思っていません。それは単純に「個性」であり、それはプラスの面からもマイナスの面からも見る事が出来ると思います。

あえて、それをマイナス面から障害と言う見方をするのであれば、この3次元競争的な制限世界への、適応障害だという事になるのかも知れません。ただ、実際には先ほども書いたとおり障害ではなく、個性であると思います。

そうした人達も、魂の学びのために今の人生を生きているのかと言う事なのですが、この世界にいると言う事はそういう事になります。犯罪者・マスター、そして私たちの全ても含めて、その事に例外はありません。

アスペルガー等の人達と言うのは、人それぞれで一概に何と言う事は出来ないのですが、社会不適応な面とセットで、個性的な長所を持っている場合が多いんですね。

それら短所・長所を総じて一言で表すと、「自分に素直すぎる」とも言えるのかも知れません。あと、「目の前の今しか見えていない」と言う面もあるかも知れませんね。

それらは、この3次元的な社会の中では、いずれもネガティブな要素(欠点)として表れやすいんですね。

しかし、高次元の世界では、それは一般常識的な生き方でもあります。高次元では、「自分に素直・今が全て」と言うのは当たり前の事なんですね。

そうした事からも分かるように、アスペルガーやADHD等であると診断される人達の一部は、高次元の魂を持つ人達であるとも言われているんですね。

しかし、3次元世界への転生経験があまり無いために、単に今回の人生における個性的な問題と言うだけではなく、魂として3次元社会を生きることに不慣れであると言う事なのです。

そうした人達と言うのは、他の人達とは異なる個性を持っているだけに、周囲の人達に色々と特別な経験の機会を与えてくれているんですね。

そして、本人達もそうした自らの経験の中に、色々と学ぶべき事を抱えているのだとも思うのです。

一概には言えないのですが、コメントにも頂いたように、そうした人達には悪意的なエゴがあまり無い傾向があるんですね。私が関わる上では、それが一番厄介と言うか、関わり方の難しい所でした。

エゴが前面に出ていれば、単純に関わりを断って距離を取って行くだけなのですが、そうでないから簡単に切り捨てる事もしにくいんですね。

そのために、気を揉んでサポートをするのですが、本人は先が見えていないためにサポートされていると言う意識が薄い、あるいは無いんですね。逆に口うるさいとさえ思われかねないのです。

それでも、このままでは困った事になるのが目に見えているためにサポート的に関わりを深めて行くと、結局はその人のやるべき事を全て自分が背負い込んでしまう事にまでなってしまうのです。

しかし、その様な時に大切な事は、その経験を「良い悪いで判断しない」と言う事だと思うんですね。そうした状況を適切に把握して、その上で、自分は「自らのあり方をどの様に選択するのか」をスピリチュアル的に考える事が大切だと思うのです。

結局、私が色々なところでその様な状況に陥った上で至った結論と言うのは、その人の学びの機会を消してしまうような形で、その人の生き方に無理な介入はしないと言う事です。

その人に、自らの在り方を何とかしようと言う意思があれば、その時にはじめてそれに応じたサポートはするけれど、こちらから勝手に先回りして、その人の学びの機会を自分が背負い込んでしまうような関わり方はしないと言う事です。

エゴが前面に出ている相手との関係においては、感情的な判断も後押ししてあまりスピリチュアル的に深い思索にまで至らないのですが、そうした人達との関わりと言うのは、「なぜ?どうして?」と言う形で、より踏み込んだ思索の機会を提供してくれる事が多いように感じています。

逆にエゴが前面に出ている人達と言うのも、それはそれで、新しい環境への旅立ちを強力に後押ししてくれていると思います。

だから、全ての経験と言うのは、「良い・悪い」や「相手がどうするべきか」と言うのではなく、「そこから何を学び、自分のあり方をどう選択するのか」と言う事が大切になるのだと思うのです。

そうした、自分のするべき事をせずにおいて、相手の問題としてそこに意識を集中している間は、なかなかスピリチュアル的に自らの目覚めを進めることは出来ないんですね。

これまでの社会では、そうしたあり方が一般的ではあったのですが、こうしてスピリチュアル的な目覚めに取り組む私たちとしては、そうしてお互いの協働によって生み出した経験の機会を、「自らの目覚め」のために上手く利用していけたらいいのかなと思います。

私たちは、お互いに魂としての存在であり、そうした目覚めの機会を求めてこの経験世界にやって来ています。そして、この様に3次元物質的な環境の中で、そうした貴重な学びの機会を生み出す事が出来ているのです。

そうして手に入れた学びの機会にダメ出しをして、そこからの学びを放棄し、スピリチュアル的な眠りの中に留まっていたのでは、いずれ魂として後悔する事になると思います。

この世界では、「不必要な事は起きません」。全ては必ず何らかの理由が合って、自分に必要であるからこそ起きている経験なんですね。

つまり、全ての経験はスピリチュアル的な目覚めのために必要なものであり、そうした機会の共同創造者である全ての魂に、感謝しながらそれを経験していけたら目覚めを効率的に進めて行けるのかも知れませんね。


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6 件のコメント:

  1. リクエストにお答えいただきありがとうございます。「個性」「良い悪いで判断しない」「不必要なことは起きない」「感謝しながら経験」。これらはいずれも私がアスペルガーと思われるスタッフのことで悩んでいるときに自分に言いきかせていた言葉で、読ませて頂きながら鳥肌が立ちました。そして、とても癒されました。ありがとうございました。

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    1. どういたしまして。(^ー^)

      私自身について言えば、今はそうした状況から離れたところから書いていますので、サラッと理想を書いてしまえます。

      しかし、実際にそうした状況の中に置かれているのであればと考えると、歯がゆくてイライラしていた過去の自分が思い出されます。

      仕事上の義務・役割以上に(あるいはそれと共に)、そうした経験からのスピリチュアル的な学びに、大きな価値があると言う視点を自分の中で明確にしておけると少しは楽になれるのかも知れません。

      そうした日常現実の中での学びこそが、本当に意味で価値のある魂の学びとなるのでしょうね。

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  2. あまりにタイムリーな内容だったのでコメントさせていただきます。
    まさに今、職場で「発達障害」と言われる人と仕事をしていて、業種が飲食業なのでその人のミスでお客さんからクレームが来ることも多く、仕込みや発注ミスも頻繁なのに、店(会社)がその人に対して何の対応もしないことにも疑問を感じています。
    この場合、私の立場での「学び」というのは、どういうことが正解なのでしょうか?
    始めのうちは、ミスもその人の個性として笑ってフォローしていたのですが、本人にとって私は単に「都合のいい人」という位置づけになってしまいました。
    そこで、ミスをしたときには毅然とした態度で注意するなどしましたが、障害のせいなのかその時だけ「すみません」と言うだけで、同じミスを何度も繰り返しています。
    「この人のミスで店がつぶれても私の店じゃないし・・・」と諦めて、この人の「個性」の尻拭いをしていくのが私の学びなのでしょうか?

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    1. (^-^)こんにちは。そうした事は今の「競争的な社会」の中では、関わる皆にとって難しい問題になりやすいですよね。そして、一般的に多くの人が、それを経験しているのだとも思います。

      その時、スピリチュアル的にあろうとする人達によくあるのが、そこに表れる問題を「自分から全部背負い込みに行ってしまう」事です。

      本来その問題は、当事者・雇用者・同僚など、それぞれの立場からサポートし解決して行く問題(機会)です。それを当事者でも無い立場から、全て背負い込んでしまうには無理があるんですね。

      無理は確実にストレス・不満を生み出す事になり、解決には繋がり難いです。しかもその結果、当事者の人からまで嫌われる事も珍しくはありません。

      そうした問題と言うのは、それぞれの環境によって、一概にどれが正しい対応だと言える答えは無いのかも知れません。

      ただ、私が過去の経験から思った事は、自分でサポート出来る部分はサポートし、その上で当事者がやるべき部分については口で応援し、雇用者が負うべき部分は雇用者に振るのが良いのではないかと思います。

      つまり、関係者それぞれに割り振って、自分ひとりで背負い込まないと言う事です。そして、アドバイスはしても、他の人の役割にまで手出しはしません。そんな事をはじめたらキリが無いからです。

      ただ、今の社会では、それで上手く行くとは言い切れません。

      その時には、それぞれの立場から、その結果を経験する事になります。当事者は当事者の立場から困り、雇用者は雇用者の立場から困り、同僚は同僚の立場から困ると言う事です。

      そこまで行けば、お互いが協力しようと言う気持ちが、多少は出やすくなるのかも知れません。それでも改善が無ければ、その経験を通じて、それぞれが魂の学びをして行くのだと思います。

      肉体的な視点からは、そうした失敗と言うのは避けるべきものですが、魂の視点からしてみれば、そうした学びの機会にこそ本物の価値があるんですね。

      先ほども書いたように、スピリチュアル的にあろうとする人によくある問題の1つは、「他人の問題まで背負い込んでしまう」と言う事です。

      しかし、自分に合わない職場だと思うのであれば、転職でも何でも選択肢はある訳で、そこに留まっているのも、他人の問題を背負い込んでしまっているのも自分の選択・自分の問題なんですね。つまり、自分の責任において、その場にいるのだと言う事です。

      私たちは「他人を変えることは出来ない」のです。出来るのは「他人に影響を与える」事だけであり、それがこの世界の真理なんですね。

      つまり、経験における原因を外側(他人)に見つけている内は、その経験を乗り越えて行くことは出来ないと言う事です。他人は変えられない訳ですから。

      それを1つの経験・学びの機会として受け入れて、その時、「自分はどの様な在り方を選択するのか」に意識を集中して行くことのみが、スピリチュアル的な学びへと繋がって行くのだと思います。

      ただ、そう思うには、そうした発想を生み出す世界観を自分の中に育てて行く必要がある訳で、それが、今こうして私たちが取り組んでいる事なのかも知れませんね。(^-^)

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    2. ご丁寧な回答有難うございました。
      相手のためにも自分のためにも、魂の進化につながるような行動を模索していきたいと思います。
      本当に有難うございました。

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    3. どういたしまして。(^-^)

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