2019/07/09

情報量ではなく浸透度

ここの所、YouTubeの方にはじめた散歩動画が楽しくなって来ています。視聴数は全然伸びない訳ですが、楽しいのでしばらくは散歩動画を中心に進めていこうかと思っています。

もちろんブログも続けて行く訳ですが、スピリチュアルと言う視点から言えば、色々と表現を変えながらも結局は同じ事の繰り返しを書いている訳なんですね。

だけど、既に今の時代には、そうした情報と言うのは書籍やネットの中に充分に溢れ返っている訳で、その人の意思さえあればどれでも自分に合ったものからしっかりと学ぶ事が出来ると思うのです。


そうした環境の中で、ここでもそれと同じようなかぶる内容を、毎日延々と同じように書き続けて行くと言う事に、ちょっとモチベーションが続かなくなって来ているんですね。

まあ、こうした気分の波はこれまでにも何度もあった訳で、しばらくペースを落としているとまた書きたくなってくると言うのが毎回のパターンでもある訳ですが。

これは私の勝手な想像で、必ずしも皆さんがそれに当てはまっていると言う意味ではないのですが、多くの人は競争的な現実に嫌気がさした所から始まって、スピリチュアル的な方向に魅かれ始めていると思うんですね。

そして、スピリチュアル的な「知識」を求めてられると思うのです。色々な知識を吸収して、あれも知っているこれも知っていると言う段階を目指しているのではないかと。

しかし、そうした段階に近づいてくると、「頭の中に広がるスピリチュアルな世界」と「目の前に広がる現実世界」のどうしようもない乖離に直面すると思うのです。

そして、そう言う段階に来たら主となる取り組みを、次の段階へと切り替えて行く必要があるんですね。

つまり、いつまでも知識ばかりを追っていたのでは、現実は何も変わらないし、そこから先には上手く進めないのだと言う事です。

ある程度の段階まで言ったら、知識を追い求める事は主から副へと位置づけを替えて、得た知識を現実に合わせて自らの経験の中に落とし込んで行く事をメインに取り組み始めることが大切だと思うのです。

それは、これまでの様に知識の「量」を追い求めるものではないんですね。じっくりと時間をかけて、知識を経験の中で「熟成」させて行く段階になります。

2019年と言う時間の中では、そうした段階に進んで行く事が大切になっているのだと思います。それは、もう知識を追ってはいけないと言う意味ではもちろんありません。

まだ知識が足りないと感じているのであれば、それはそれとして更に求めて行くことは良いのですが、その一方で、そこで得たものを経験の中に落としこんで行く事にも取り組み始めた方が良いのではないかと言う事です。

頭の中にはスピリチュアルな知識と世界観が満載でありながら、現実は仕事に追われる毎日で、何も変わって行かないと言う人は多いのではないかと思うのです。

スピリチュアルが、空想に留まり現実になっていないんですね。

そして、そうした空想と現実の乖離を、ソーラーフラッシュなどのイベントが解消してくれると思っているのであれば、それは大きな誤解だと思うのです。

そうしたイベントと言うのは、自分の足で自らの(知識ではなく、行動・あり方としての)経験を調和的に変え続けている人に吹く強い追い風なのだと言う事です。

知識だけを持って、現実の中では立ち止まっていると言うのでは、おそらくその風に吹き飛ばされて転げてしまうと思うんですね。

アセンションの鍵は「知識ではありません」。鍵は「自分のあり方(行動)」なんですね。

そうした中で、これまでの様にブログを書き続けると言う事が、そうした人達を「あり方」ではなく、「知識」の段階に足止めさせてしまってはいないだろうかと心配になるのです。

読んで知識欲を多少なりとも満たす事で、踏み出さなければならない次の一歩を誤魔化させてしまっていないだろうかと。

知識を現実に落とし込んで行くと言うのは、各自の個性や置かれた環境によって千差万別であり、知識の様に誰にでも共通したものにはならないんですね。

だからそれは、人から教えてもらうのではなく、自分自身で模索する必要があるのです。

そうした時に他の人達の経験に触れると言う事は、そのままでお手本にはならなくても、参考にはなります。

そこで大切なのは「量」ではありません。

私たちは、教育によってたくさんの知識を詰め込む事が進歩であると言う印象を植え付けられているのですが、それは進歩の初期段階であって、次の段階ではそれを自分の経験の中で「深く熟成」させて行く事が大切なのです。

その段階においては、「量は重要ではない」んですね。

例えば、こうした「文字」と言うツールは、知識として頭の中で解消される傾向が強く、現実として熟成させる方向に意識が向かいにくいのです。

つまり、理解したら満足してしまい、それが現実の中で行動につながって行く所にまで影響が届かない傾向があると言う事です。

しかし、音や映像と言うのは、文字よりも遥かに現実感が伝わりやすいんですね。同じ内容を文字で書くのと、映像の中で話すのとでは、現実感がまるで異なります。

つまり、文字は理解で終わりやすい(逆に言えばじっくり理解する事には向いている)けれど、音や映像と言うのは、それが日常生活の一部として雰囲気が伝わりやすいんですね。特に室内で椅子に座っているのではなく、自然の中からであればなおさらだと思うのです。

そして、その時には「情報量」を求めてはいけないと言うことも大切です。情報量を求めるのであれば、書籍にじっくりと向かい合う事が効率的です。

動画ならではの長所と言うのは、「量」ではなく、日常の中に浸透させて行く上での「感覚的な浸透度・熟成度」だと思うんですね。つまり、何となく日常的な感覚の中で雰囲気を感じ取って行くと言うことです。

そうした思いと自分の趣味とが重なって、散歩道の動画をはじめた訳ですが、そうした意味では、他にもドキュメンタリー等の番組などもとても適していると思います。

私は気に入った、つまり感動したり自分に波長が合った番組は、子供の頃からビデオに録画して何十回でも見て自分の中に焼き付けて来ました。

それは今でも同じ事で、気に入った動画は何十回でも繰り返して見ると言うのは、私にとってはとても普通の事なんですね。

大切なのは「情報量」ではなくて、自分の中への「浸透度」なのです。


Slow Lifeな散歩道(動画)


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2 件のコメント:

  1. 自分の中への浸透度、まさしくおっしゃる通りだと思いますね。
    今、色んなワークショップなどに参加されている方も多いと思いますが、参加することが目的となっている方も多いような気がします。また、その先生に心酔してまるでファンクラブのようになっている場合も。

    私も、とある方の講座やワークショップなどに参加していますが、最近ではもういいかなぁという気持ちが大きくなって来ました。確かにワークショップに出ることは楽しいのですが、真の目的はそこじゃ無いわけで、そこで学んだ事を実践して自分のものにする事こそが大事なんじゃないかなと思うようになって来ました。

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    1. そうですね、まさに言われるとおりです。決して批判ではなく、そこには解消した方が良い課題があると言う意味で、そのとおりだと思います。

      講座やワークショップ、あるいはブログや本の中にあるのは「鍵」です。そして、多くの人達は、その鍵をたくさん集める事で満足している、あるいはその鍵の使い方を知らずにいると言う現実を強く懸念しています。

      鍵をたくさん集める事が、スピリチュアル的な目覚めであると誤解している傾向が全体にあるんですね。

      それは、アセンションを知っている人達に多く見られる傾向です。

      しかし、大切なのは鍵を使う事であって、鍵を使って自分の中の宝物を取り出している人達と言うのは、逆にアセンションの知識なんてまるでない人達なんですね。

      つまり、アセンションに関する中途半端な知識が、多くの人の目覚めの足を引っ張っている可能性があります。

      だから、散歩動画を始めたと言う意図があるんですね。視聴数はまったく伸びませんが、人数ではなく浸透度と言う意味で、例え一人でもそこから伝えたいものを感じ取ってもらえる人の役に立てたらと思っています。

      大切なのは、知識ではなくて現実(あり方)なのですが、アセンションを知ってしまった人達は、知識によって大きく足をひっぱたれていると言う現実を懸念しています。

      いよいよ大きな変化が始まっており、ブログの更新を減らしているのには、知識と言う麻薬を断って、現実の中で本気になって取り組んで欲しいと言う意図があります。

      だから、散歩動画と言う私の現実をシェアし始めたんですね。(^ー^)

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