2019/07/19

調和の源泉

今年に入ってから繰り返し書いて来ている事ですが、2019年そして2020年と言うのは明確なスイッチが入った年になると思います。

自分以外の人達が、今起きている変化をどの様に捉え把握しているのかと言う事がよく分からないのですが、人間社会において完全に大きな変化が起こり始めたと思っています。

数日・数週間単位ではそれに気付かなかったり、あるいは単発的なものに感じられるかも知れませんが、数ヶ月単位で物事の変化を眺めれば、後戻りの無いかなり大きな変化が見え始めています。


それは、宇宙線(エネルギー)の増大に伴う、異常気象・地震と火山の活動に引き続いて起こり始めた変化であるとも見れます。

つまり、宇宙的な変化の活発化によって地球的な変化が活発になり、地球的な変化の活発化によって人間社会における変化も加速し始めたと言う事です。

最近はあまり書いていないのですが、エネルギー環境的に言えば、特別な波が訪れていなくても、常日頃からのエネルギー密度が格段に高くなっています。それは、5年前10年前とはまったく異なる環境にある事が、明確に感じられます。

そうした事から見てもかなり高い確率で、今から来年にかけての数ヶ月単位の変化の中で、かなり大きな社会的変化が始まって行くだろうと思います。そして、それは既に始まっています。

そうした変化は、その期間内に完了すると言うものではなく、これから15年前後をかけて辿る事になるアセンション過程の最終章・最終段階に、いよいよ突入するのだと言う事です。

これまでは、現実社会の出来事等にはあまり深くは関わらず、世界観としての抽象的・知識的な面からブログ記事を書くことが多かったのですが、タイミング的にそろそろそうした時期も終わりなのかなぁ~と思ってみたり。

今年に入って繰り返し書いて来ている事なのですが、現在の私達の最大の課題は、「知識が現実になっていない」と言う事だと思います。

頭の中、思考の領域は「調和バンザイ!」で、スピリチュアルな知識がギッシリ詰まっていると思うのですが、目の前の現実はどう言う訳か「分離ウンザリ!」で、拾い集めて来た知識がまるで反映されていないと言った感じで。

それは私の勝手な想像であり、必ずしも皆さんに当てはまっていると言うつもりは無いのですが、問題の1つとして、調和の源泉がどこにあるのかを勘違いされている場合があるのかも知れません。

例えば、自然の中を散歩するとします。

ある人は、その山道や海辺、川岸等を歩きながら、そこに自然の美しさ・神秘を見出し、鳥や動物達のあり方にも興味を持ってとても充実した時間を過ごしたとします。

この場合、そうした経験を調和的な経験であると言えるのかも知れません。

しかし、一方である人が、それと同じ自然の中を歩きながら、何でこんな所を歩かなければならないんだと不満を抱き、家でお菓子を食べながらゲームをしていた方がよっぽど良かったと感じていたとします。

この場合は、それは調和的な経験であるとは言えません。

誤解しないで欲しいのですが、これは良い悪いと言う視点から書いているものではありません。調和と言う思考を、現実の中に落としこんだ時に、どのような現実が調和と言えるだろうかと言う1つの例です。

つまり、何が言いたいのかといえば、調和の源泉と言うのは私達の外側に環境としてやって来るものではなくて、私達自身の中から湧き上がって来るものなんですね。

しかし、なかなかそれを現実の中に捉えられずにいると言うのが、私達の現時点における最大の課題ではないだろうかと思うのです。

外側に調和を探し続けても、前には進んでいけないんですね。なぜならある意味で、調和と言うのはどこにでもあるものだからです。

問題は、自分の周りに調和が無い事ではなく、自分の周りにある調和を、調和として捉える事の出来ない、自分自身の意識のあり方にあるのです。

しかし、そうした私達がどこに向かいたがっているのかと言えば、もっと難しい言葉や仕組みで、これが調和であると言われているものを理解したいと言う事なのかも知れません。

しかし、私達に欠けているのは、新しい知識ばかりではなく、既にある知識を感覚と視点によって、自らの経験の中に現実として落としこんで行くことだと思うんですね。

そこには難しい世界の仕組や、いかにもと言うようなスピリチュアル用語が、のしを付けて「はい、これがスピリチュアルです。」と用意されている訳ではありません。

そこにあるのは、ある意味では「普通の現実」なんですね。しかし、それを受け入れる視点によって、ある人はそれを「調和的」に経験し、ある人はそれを「分離的」に経験するのだと言う事です。

そうした積み重ねが、自身に引き寄せられて来る経験をも換えて行くのです。

大切なのは、調和的な経験を探す事ではなく、ありふれた現実の中に調和的な視点を見出す事なんですね。

そもそも、アセンションと言う方向に興味を持っている時点で、私達には知識を重視し現実をやや後回しにする傾向があるのかも知れません。

例えば、アセンションのアの字も知らず、知識としてはスピリチュアルな世界観を持っていなくても、経験を重視しながら調和的な現実を着々と構築し続けている人達も大勢いるのです。

そして、実際にアセンションするのは、知識をたくさん持っている人達ではなく、現実として調和的にある人達なんですね。

知識と言うのは、現実の中に落としこんで使う事で、始めて本当の意味をなすものです。

知識を持っているだけでスピリチュアルだなんて言うのは、ある意味ではチャンチャラ可笑しな話なのかも知れません。

マスターと言われる人達も、その時代・その地域の、その他大勢の人達と同じ環境の中を生きているんですね。

調和とは、外からやってくるものではありません。その人の中から湧き上がって来るものです。つまり、同じ現実を調和的に捉え経験して行くための視点を、自分の中に探し出す必要があるのだと言う事です。

自然の中を歩きながら何を見て感じるのか、社会の中で生活しながら何を見てどう感じるのか。自分の中に持たれるその視点こそが、調和の源泉となるものなんですね。


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